30代がん闘病記

2014発病・入院 → 2016転移・再入院・離婚 → 2018再出発 → 2022再々発 → 2023入院

1/14 年賀状狂騒曲

突然だが、僕の本来のよさというのは、「人のよさ」にあったと思う。太宰治の人間失格に出てくるヨシ子は「信頼の天才」とあったが、それと同じで若いころの僕は余り人を疑うということをしなかった。自分で言うのも何だが、その人のよさでもって、色々な人から好かれたり、可愛がられたりすることが多くあって、今思えば、それで人生が上手く回っていた気がする。

勿論、その人のよさに付け込まれたり、馬鹿にされたりということは多くあったが、それよりも得るものの方が多かったように思う。

しかし、病気に関係するゴタゴタで僕のよさはすっかり失われてしまった。

 

一旦、タイトルに戻ろう。年賀状というのはある種の神経衰弱だ。今年はもういいだろうと送らなかった人から送られてきたり、この人には送っておかないと、という人から返ってこなかったりする。人間関係の取捨選択を迫られるイベントでもあったりする。

年賀状を僕の方からは何回か送ったのだけど、全て返って来なかったので、もういいかということでこちらから送るのをやめた人がいた。僕が病気になって落ちぶれていたので、こいつには送る価値はないと判断されたのだろう、と当時は思っていた。

しかし、なぜか今年に限って件の人から年賀状が届いていた。不思議な感じがした。不思議というよりも、不信感に近いかもしれない。皆さんも経験上分かると思うが、一度年賀状のやり取りが断絶した以上、何かしらの理由がない限り、自然発生的に再開するというのはほぼ有り得ないからだ。

この年賀状をくれた彼も、深い理由もなく、今年に限って何となく年賀状を送ってきただけかもしれないが、僕はそれを素直に受け止める心をもはや持っていない。昨年起こった「何か」の理由があって、関係を繋ぎとめておくために送ってきたようにしか思えないのだ。「何か」とは何だろう。電験1種に受かったこと、弁理士に受かったこと、超大企業に転職をしたことか、を漏れ聞いて、まだ使い道があると思ったのかもしれない。

 

年賀状ごときで、ここまで邪推するような人間に自分がなるとはね。

汚れつちまつた悲しみに。