30代がん闘病記

2014発病・入院・結婚 → 2016転移・再入院・離婚 → 2018再出発 → 2022再々発 → 2023入院→2025最終章

2025/6/28 完全なる孤独

完全なる孤独である。

家族にも社会にも必要とされない人生。

頭痛とともに目覚め、取りたくもない流動食を流し込み、数々の痛みや後遺症に耐えながら、痛み止めと精神安定剤を飲んで、一日中薄暗い部屋で過ごす。もはや曜日の感覚も無い。体重は10kg近く落ちた。話したくても声が出ないので、怖くて人と接することができない。何のために生きているのか分からない日々の繰り返し。

 

父親は上手く社会に適合できない人で、最後までまともな定職に就いたことがなかったが、彼は彼なりに苦しんでいたのかもしれない。昔は軽蔑していたが、社会に居場所がない辛さは、今の僕は誰よりも理解できる。

結局、父親は50代後半でガンに罹り、そのまま亡くなったが、母親(祖母)も、妹(叔母)も、妻(母親)も、息子の僕も最期まで病床に居た。それなりに幸せな死に様だったのではないだろうか。

一方、僕は40代前半で、父親とほとんど同じ状況ながら、周りには誰もいない。軽蔑していた無軌道に生きた父親よりも、圧倒的に絶望的で哀れなこの人生の末路。僕の生き方の何が悪かったのだろうか。人の道から外れたことなどないし、誠実に生きてきた自負もある。一体、僕が何をしたというのか。誰にも必要とされていないのに、苦しみに耐えながら生きる意味はあるのだろうか。

 

朝が来ないことを祈りながら眠りにつくだけの日々。

一体何のための人生だったのだろうか。

 

2025/6/14 大切な友人

大切な友人がいる。

「友人」は、普通は学生時代にできるもので、社会人になってからの知り合いは利害関係が絡むため、なかなか「友人」にはなり得ない。ところが彼は、僕が新卒で入社した会社の同期になって以来の付き合いである。車のことを書いた日記で少し触れたが、同じ愛知の田舎の工場に配属されてから15年近くの付き合いだ。

僕は病気になって、多くの人と疎遠になったし、自分からも人を遠ざけた。自分が惨めになってしまうからだ。しかし、不思議と彼の前では、自分の情けない部分も何も隠さず接することができる。

 

その他の「友人」は僕が病気になって自分から付き合いを絶ってしまったり、何となく疎遠になってしまった人が多い。一応連絡が続いているうちの何人かは、LINEや年賀状で、近いうち会いに行くよ!と言ってくることもあるが、まず来ることはない。

来ないことについては別に何も思わない。近くに住んでいるならまだしも、大金と時間をかけて遠くまで移動して、もはや付き合うメリットもない病人の相手なんて誰もしたくないのは当然だ。そんなことは分かっているから、来ないのが普通だと思っている。

 

ただ、「行く」と宣言して、来る気配すらないと、そりゃ普通は来ないよなぁと、分かっていながらも少し悲しい気持ちにはなる。

来ないのが悲しいのではない、来るフリをするのが悲しかったのだ。

来るフリをするのは、誰に対しての気遣いなのだろうか、といつも思う。死なれたら後味は良くないが、行く気はあったが忙しくて行けなかったのだから仕方がない、死んだあいつもそれは理解してくれているだろう、という自分自身への言い訳のためなのだろう。

 

しかし、彼は昨年に、本当に見舞いに来てくれた。

もはや付き合っても何のメリットもない僕に会いにくるような、こんな人間がいるのかと信じられない気持ちだった。とても嬉しかった。その時はまだ口も動いたので、楽しく話をさせてもらった。とてもいい時間だったと感謝とともに今でも思い出す。

 

そして、また今年も来ようとしてくれている。

とても嬉しい気持ちもあるのだが、もう僕は人間としての体をなしておらず、まともな応接はできない状態なので、一旦保留とさせてもらっている。

情けない話であるが、今の僕の体たらくを見られたくないのだ。食事もできない、まともに話をできない、ではわざわざ来てもらっても、申し訳ないだけだ。彼の中では、僕の姿は元気で精力的に働いていた頃の僕であって欲しい。願わくは、もう少し長く生きて、酒を飲みながら楽しい話をしたかった。

そして、何とも不思議な縁だが、彼の奥様の家族とも仲良くさせて頂いた。奥様のお兄さんの外見が僕とそっくりという縁からだ。ご自宅にお邪魔したときは、こんな家で育ったら、僕の人生も全く違ったものになったのだろうな、と思える素敵な家庭だった。来世があるのならば、次はこんな家庭に生まれたいものだ。

 

K君、奥様、いつもありがとう。感謝しています。

 

2025/6/7 休職

会社を休職することになった。

最近は全く声が出なくなったと同時に、固形物を飲み込むのが困難になり、あまり食事が取れていない。色々検査をしたが、結局は原因も分からず、手の打ちようがない。食事が取れないことによる体力的な衰えが著しく、精神面も不調をきたしている。

復職した最初の頃は、多少きついながらも何とか仕事もこなせていたのだが、ここ最近は、声が出ないからまともなコミュニケーションも取れない上に、出社して定時まで会社にいるだけでも疲労困憊している有様だったから、やむを得ないだろう。

希望を持って復職したものの、最後のほうは仕事らしい仕事もできず、醜態を晒して、会社を去ることになってしまった。休職前は仲良くしていた人も、会社での力を失った病人の僕には近付こうとはしない。社会の摂理ではあるが、何とも寂しいものである。

 

これからどのくらい休職できるかは分からないが、前回の休職の分もあるので、残り数か月休職したら退職扱いとなるのだと思う。

いよいよ社会的な居場所も失ってしまった。

もう何もする必要もないし、誰にも必要とされていない。

 

全ての事象が終着点へ収束しようとしている。

止められないし、止める努力をする必要もない。

全ては終わったのだ。

 

2025/5/16 車と僕の寿命

いつの間にか車のリアのエンブレムの一部が剥がれ落ちていた。

 

この車を買ったのは15年以上前、転勤先の愛知にいた頃だ。

実家に車がなかったので、そもそも車で移動するという発想のない僕は、愛知の田舎に転勤してもしばらく自転車で活動しており、周囲からは変り者扱いされていた。しかし、転勤先はそんな僕でも車の購入を考えるほどの田舎ぶりで、このブログによく出てくる友人のK君に中古車ディーラーを紹介してもらい、120万ほどで購入したのだった。

購入時点で既に中古だったので、今やもう四半世紀も前に作られた車だ。最近は車検のたびにそれなりの修理費用が掛かっている。効率を考えると乗り換えたほうがいいのだろうが、この車には廃車にできない思い出が詰まっている。

 

まず僕自身は、自分が免許を取って車に乗れるような人生を送れるとは夢にも思っていなかったので、車を持てて非常に嬉しかったのを覚えている。自分も他の人と同じような普通の人生を送る資格があるのだ、と肯定されたような気がしたのだ。

そして、愛知から東京に戻ったときは、維持費がかかるので、しばらくは福岡の母親に預けていた。母親も人生で初めて車を持てたのが嬉しかったようで、とても大事にして、色々なところにドライブに出かけていた。職場でもかっこいい車と言われるのが自慢だ、と何度も言っていた。

僕が1度目の発病後に福岡で療養していたときは、元妻とパグも含め家族で色々なところに出かけた。僕が2度目の発病で九州がんセンターに入院していたときは、この車で母親に送迎をしてもらっていた。退院後、体調が戻らず、離婚もして精神的にも落ち込んだ僕を元気付けようと、ドライブに連れ出してくれたりもした。

その後、何とか体力も精神も復調した僕は転職に成功し、通勤に使うために再び僕の相棒となって今に至っている。

 

希望に満ちた頃に手に入れた、楽しい思い出も、苦しい思い出も、全て詰まったこの車。自分の人生そのものである。満身創痍なその姿を見ていると、まるで自分自身を見ているようで、無性に胸が苦しくなる。エンブレムの剥がれた箇所に手を当てると、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。

 

相棒、限界だろうけど、もう少しだけ頑張ってくれるかい?

もうすぐ全てが終わるから、終わったら一緒にゆっくり休もう。

 

2025/5/11 仮想通貨(終活)

仮想通貨を全て売却して現金化した。

本当は仮想通貨に係る売却益の税率が20%になる法改正を待ってから売却したかったのだが、そこまで生きてはなさそうだから、ここらが潮時だろう。

確定申告が必要なくらいの利益は出ているが、昨年の12月に一旦売って、同額で買い戻し、昨年度のうちに確定申告を済ませてしまっている。昨年は傷病手当の収入で生活をし、所得税がほぼ掛かっていない状態だったので、昨年度のうちに一旦売って利益を確定させてしまったほうが、雑所得の税率が低く済むと考えたからだ。

実際、昨年度は医療費控除やその他控除などと相殺して、確定申告は0円で済んだ。

 

そして、今年は買い戻した時よりもさらに高値で売却できたが、利益は今年の確定申告は不要な範囲に収めることができた。今年の年末まで生きているか怪しいから、今年度の確定申告をしなくて済むように、色々考えて計画的に行動している。

終活のモデルケースにしてもらいたいくらいである。