30代がん闘病記

2014発病・入院 → 2016転移・再入院・離婚 → 2018再出発 → 2022再々発 → 2023入院

2024/11/24 命日

母親の初命日である。

思い出しながら文章を書いていると、病気で自分のことばかり気にしていたため、母親の体調まで気に掛けてあげられなかったことなど、様々な後悔がよぎる。

 

1年前の今頃の僕は、強力な抗がん剤の投与を終え、ベッドの上で横になっていた。母親とは朝8時にメールでやり取りをすることにしていた。これはどちらかと言えば僕の方の安否確認の意味合いが強かったのだが、その日に限っては母親からの返信が無い。

昼になっても返信が無いため、気になって電話を掛けてみるがやはり反応が無い。嫌な予感がして、家の隣の方に電話をしてインターホンを鳴らしてもらったが、やはり反応が無く、新聞もポストに入ったままとのこと。これはまずいかもしれない、と119に電話をして福岡の消防と連絡を取り、家の中に入ってもらったところ、中で母親が倒れていた。

翌日、新幹線に乗り、駅からタクシーで病院に駆けつけた。ICUに飛び込むと、ベッドには管をつけた母親が横たわっていた。その姿を見た僕は、体調の悪さも相まってその場にへたりこみ、母親の手を握りしめ「ごめんね、ごめんね」と人目もはばからず何度も泣きながら繰り返した。奇跡的に生きてはいるが、もう助かる見込みは無かった。

 

それから母親が死ぬまでの数週間、毎日病室に通い「その日」を待った。毎日毎日、白塗りの病室に通っていると、今が何月何日何曜日なのか、自分が何者なのか、何をしているのか、何のためにここにいるのか、目の前で寝ている人が本当に自分の母親なのか、これが本当に現実なのか、分からなくなる。定期的に来てくれた叔母と話しているときだけ、正気を保っていられたような気がする。

もう見込みが無いのなら早く楽になって欲しいという感情と、お願いだから死なないで欲しいという感情がせめぎ合っていた。

 

そして、幸運にも、と言うべきだろう。その瞬間を看取ることができた。

17時頃、母親の血圧と脈拍が急激に下がっていく。父親を看取ったときと同じだ。もう駄目なのだろうな、と思いながらも、母親の手を強く握ると温かい。温かいのだ。まだ生きているのだ。目の前で起きていることが現実のものとは思えない。僕の唯一の肉親で、この世で一番大切な人が、目の前で死んでいくという信じられない現実。

 

いつも優しかったお母さん

どんなときでも僕の味方だったお母さん

泣き虫だった僕をいつも慰めてくれたお母さん

優しすぎて貧乏くじばかり引いていたお母さん

真面目すぎて生き方が下手くそだったお母さん

人の悪口を絶対に言わなかったお母さん

父親を最後まで見捨てなかったお母さん

大好きだったお母さん

 

病気ばかりして心配かけてごめんなさい

離婚して孫の顔を見せられなくてごめんなさい

病気が苦しくて辛くあたってしまってごめんなさい

倒れたときそばにいてあげられなくてごめんなさい

僕はお母さんにとっていい息子でしたか?

 

様々な感情が涙と共にとめどなく溢れ出てくる。

臨終の宣告ともに現実に引き戻されると、いつの間にか外は暗くなっていた。

 

2024/11/9 一周忌

母親の一周忌を終えてきた。

僕の実家はもう無いので、前日に新幹線で移動し、寺の近くのホテルに前泊することにした。体力があれば当日の往復で大丈夫な距離だが、今の僕に無理は禁物である。

天候が不安定な時期だったが、幸いにも当日は天候に恵まれた。1年も経つと法要にも悲壮感はなく、何とも和気あいあいとした雰囲気である。今の僕の唯一の救いは、親戚が皆、僕のことを心配して気に掛けてくれていることである。

1年前の49日法要は、抗がん剤の影響が強く残っており、禿げ上がった頭で頭痛に耐えながら、法要の進行も息も絶え絶えだったが、今回の一周忌はそれなりに体力も戻り、髪も生えそろった状態で進行することができた。

自分の体力と精神力が少しずつ回復しているのが分かる。病気は良くも悪くも変化がなく安定しており、1~2年で死ぬということは無さそうだ。一周忌も終わり色々と区切りがついたので、会社への復職を検討している。いつ死ぬか分からない以上、食い扶持を稼ぐのも必要であるし、何より家族という大きな繋がりを失った僕にとっては、会社を通じてでも社会的な繋がりを回復をすることが大切だ。

 

無事に全員を見送り、新幹線で帰路に就いた。車窓から見慣れた博多駅が遠ざかっていくのを眺めていると、何とも言えない寂寥感に襲われる。帰るべき実家が無くなってしまうというのは何とも寂しいものである。

誰もいない家に帰ると、布団に倒れ込み、泥のように眠った。

 

2024/10/26 財布

財布を変えた。

僕は社会人になってから、16年ほど同じ財布を使い続けてきた。日本製の黒のコードヴァンの財布は頑丈でとても気に入っていたが、16年も経つとさすがに限界が来て、3年前に別の財布に変えたのである。しかし、変えた途端に、病気の再発、母親の死など、数々の不幸に見舞われたのだった。

僕は風水や占いの類は信じないが、財布を変えた途端にここまで不幸が続くと、さすがに運気というものを気にしてしまう。なので、実家の引き払いが終わるまで、不幸を全部吸い込ませてから、新しい財布に変えようとずっと思っていた。

色々調べて、また日本製の黒のコードヴァンの財布にすることにした。値はそれなりに張ったが、恐らくこれが僕の人生最後の財布になるだろうから、出し惜しみはしないほうがいいだろう。死んだら棺桶にでも入れてもらおうと思う。

 

前の財布はお祓いでもしてもらって、燃やしてしまおうかと考えている。それぐらい前の財布に変えてからというもの不幸しかなかったのだ。

残り短い人生だが、今後は幸運が巡ってくることを願う。

 

2024/10/7 コメント欄

コメント欄を復活させることにしました。

昔のように色々な方と交流して、心の潤いにしたいと思ってます。

以前もそれなりにコメントを頂いて、楽しくやり取りをさせて頂いていたのですが、よく分からない人達に粘着されてから、コメント欄を閉鎖していました。最近は開示請求も一般的になってきたので、そういった誹謗中傷をする人は減ってきているとは思いますが、もう荒らさないでくださいね。

どなたでもコメントできるようにしてますので、お気軽にコメントください。

 

2024/9/25 ソマトスタチン受容体シンチグラフィ(その2)

さて、前回の続き。

この「ソマトスタチン受容体シンチグラフィ」は、下図のフローで2日に渡って行われる検査である。事前説明を受けた際は、「MRIの様な大掛かりな装置でもなし、大した検査でもなかろう」と高を括っていたのだが、数々の検査を乗り越えてきたこの僕をして、二度と受けたくないと言わしめるものだった。

引用元:https://www.hosp.ncgm.go.jp/s037/008/080/20210106161534.html

 

まずは撮影の前にRI(放射性同位元素)を投与される。

抗がん剤の点滴で血管が弱っている僕は、左腕には針を刺す場所が余りないので、最初は左ほど弱っていない右腕を提示した。しかし、手始めに3度失敗される。

2回目の失敗くらいで脂汗が出てきて、動悸が激しくなってきた。以前の日記(こちら)で書いたが、下手くそな医者に点滴を失敗され血管迷走神経反射になった経験以来、針を刺されるのが苦手になっているのだ。途中から下を向いて目を強く瞑り、早くこの苦痛から解放されることだけをずっと祈っていた。

4回目に左腕に刺そうとするが、そこでも失敗し、最後の5回目に左手の甲に刺して、ついに成功となった。この事前作業だけで僕の精神は激しく消耗し、病院の待合でしばらく放心することになった。いきなり先が思いやられる。

 

次は1日目の撮影である。

ただ台の上に寝て頭を固定されるだけかと思っていたら、予想外なことに両手を動かないように固定されてしまった。MRIでもCTでもいつものことなのだが、頭が掻けない状態にされてしまうと、最初は痒くなくても、ムズムズしてきて本当に頭と顔が痒くなってくるから不思議なものだ。

さて、この検査はMRIのように強烈な電磁ノイズを聞かなくていいだけ楽ではあるが、撮影時間が1時間とかなり長い。縛られた状態で1時間我慢するというのは、皆さんが思っている以上に疲れるものだ。案の定、検査後は体がバキバキであった。

最初の注射のこともあり、疲れ果てて帰宅した。

 

2日目の撮影も、当初は1日目と流れは同じであった。

1日目と同じくらいの撮影時間が経過した後、技師さんが僕のところに近づいてきたので、やっとこれで終わりか、と弛緩したのも束の間、信じられない言葉が。

「はい、これから40分で全身画像を撮っていきますね~」

…絶望した。最初から1時間40分と言われていれば覚悟もできようものだが、「終わり」という希望を見せられてからの40分は精神的に苦しい。部活でランニングが終わって安堵していたところに、突然ダッシュ追加と言われたときの理不尽を思い出した。

しかし、外科手術の後の1週間にわたる苦しさに比べればどうということはない、と自分に言い聞かせ、心を無にして、さらなる40分を何とか耐え抜いたのであった。

2日目も1日目以上に疲れ果てて帰宅した。

いやはや、疲れる検査であった。