30代がん闘病記

2014発病・入院 → 2016転移・再入院・離婚 → 2018再出発→2022再々発

2022/11/15 キイトルーダ13回目と種の保存五たび

また更新が遅くなってしまった。

キイトルーダの投薬13回目であった。相変わらず病状に進展はない。 

投薬を始めてから、記憶力と集中力が落ちた気がする。多分気のせいなのだろうけど、そう思ってしまっていることが問題なのだ。こういう思い込みが深層心理に働いて、本当に集中力と記憶力が落ちて行くのだ。唯一の僕の財産である頭が失われていく。もう今度こそ駄目なんだろうと思う。今回ばかりは乗り越えられる気がしない。

 

そういえば、2年ごとの定期イベント、精子の保存の延長申請のために東京に行ってきた。もう5回目である。5回目ということは、発病からもう8年も経つのだ。今回はキイトルーダを投薬していることを理由に、遠隔での診断で延長をお願いしたが、対面で診察を受けて欲しいとの一点張りであった。

今時、TeamsとかZoomもあるのだから、融通を利かせてくれればいいのにと、病体に鞭打って上京したが、なんと診察は2分で終わりであった。ハッキリ言って怒りを覚えた。嘘でもいいからもう少し話をするのが礼儀というものであろう。こんな2分間のために上京したかと思うと、馬鹿らしくて腹立たしい気持ちになった。

 

精子の冷凍保存の2年間の延長はしたが、もうこれが最後の延長だろう。2年後に生きているとは到底思えない。生きていても社会的には完全に死んでいるだろうから、どの道必要はないだろう。もう頑張る必要はない、後は墜ちていくだけだと思うと、正直なところ気が楽ではある。

2022/10/25 キイトルーダ12回目と運命論

キイトルーダの投薬12回目であった。病状に進展はない。

キイトルーダを始めてから、鼻水の量が尋常じゃなく増えたため、市販の鼻せんでは漏れを止めることができず、医療用の綿球を使用するようになった。鼻水が垂れるたびに、自分の人間としての尊厳が汚され、寿命のロウソクの火を消していっているように思える。鼻水というよりも、もはや何かしらの体液なのだろう。鼻から液体が垂れてマスクを汚すたびに、人間社会で真っ当な構成員として生きる気力が失われていく。

 

もう疲れてしまった。

本当は全てを投げ出してのんびりと短い余生を送りたい。とは言え、僕が働き続けないと、母親の生活を維持することもできないし、予想外に永く生き延びてしまったときに生活を送るだけの貯えをすることもできない。確実に「死」を迎えるという状況でなければ、このラットレースからは逃れることはできないのだ。ラットレースとはよく言ったもので、ハツカネズミよろしく、回し車を死ぬまで回し続けるしかないのだ。何とも滑稽な話である。

そして、このラットレースから逃れる勇気も僕にはない。まさに死ぬまで働くのだ。実家が裕福であればこんな思いもしなくてよかったのだろうか。実家が裕福であった瞬間がない僕には分かりようもないことであるが。家系の経済的・遺伝子的な業を背負って死ぬまで働くのである。

貧乏な家庭に生まれながら、奨学金で大学院まで進み、社会に出てそれなりの俸禄を得ても、度重なるがんの発病と、それに伴う離婚、経済的不振で全てがご破算となり、さらにそれらを跳ね除けても、…まだ足りないのだ。マイナスをプラスに変えることがどれだけ大変なことか。僕はそれを成し遂げ続けてきたのだ。しかし、この努力を否定され続ける僕の人生はもう、マイナスにしようとする超人間的な何かしらの力が働いているとしか思えない。

結局はマイナスで生まれた人間は、負け犬のまま路上で朽ち果てて人生を終えるのだ。

2022/10/4 キイトルーダ11回目と歯医者

キイトルーダ11回目の投薬日であった。それだけである。何も特筆すべきことはない。効果がないことを認識しながらダラダラと超高額な投薬を続け、医療費を垂れ流すだけの日々よ。身体へのダメージもそれなりにあるわけで、最近は体力が落ちたし、鼻水がとめどなく流れ出てくる。この鼻水の処理で毎日精神的に消耗してしまう。正直なところ、もうどうでもよくなってきた。この無間地獄を早く終わらせたい。

 

さて、僕は唾液が少ないので、虫歯になりやすく、定期的に歯医者に通っている。先日の定期健診で虫歯が見つかったが、治療時には麻酔があったほうがいいとのことで、キイトルーダを打っているという事情もあり、一応主治医への確認を勧められたのだった。主治医の回答は問題なしとのこと。

よって、麻酔ありで虫歯治療をしてもらおうと、歯医者に出向き、

「麻酔はどうされますか?」という先生の問いに対し、

「大丈夫です」というやり取りを済ませたのであった。

しかし、先生は麻酔無しで治療を始めたのである。

 

理由はお分かりだろうか。僕は「No problem / Yes please」のつもりで回答したのだが、歯医者の先生は「No thank you」の意味に捉えてしまった、ということだ。この捉え違いに気付くのに歯を削られ始めて僅か0.1秒。危ないところであった。今後は極力「大丈夫」という回答をしないようにしようと思う。

 

とは言え「まだ人生を諦めずに生きていくことはできますか?」と問われたら

「もう大丈夫です」と今の僕なら答えてしまいそうだな。

さて、どちらの意味だろうか。

2022/9/13 キイトルーダ10回目と病院変更

更新がだいぶん遅くなってしまった。

今日はキイトルーダ10回目の投薬日であった。今回より治療先を現住所付近の病院に変えてもらっている。さすがに3週間に1回実家まで帰って治療を受けるのはのは体力的・金銭的にも負担が大きくなってきたためだ。車で通えるようになったのでかなり楽にはなった。それに伴い、投薬日も、今までは金曜だったのが、火曜日に変わっている。

今のところはキイトルーダを淡々と打っているだけなので、病院による違いはさほど現れてこないが、問題は今後病状が悪化したときにどうなるかというところだろうか。もっとも、病状が悪化した場合ば、仕事を辞めて地元に帰って元のがんセンターで治療を受ける予定なので、そのあたりもさほど問題はないだろう。

新しい病院の様子はどうかと言えば、とにかく待ち時間が長く、また人が多いので、待ってる間もいまいちリラックスできない。また、全体的にホスピタリティが不足している病院なような印象を持った。

正直なところ、今の仕事なんかさっさと辞めてしまって、ストレスのない暮らしをしつつ、のんびりと余生を過ごすのが一番いい生き方なのだろう。しかし、それを実現しようとするとお金を稼がなくてはならず、結局今の仕事を辞められないというジレンマに陥るのである。

2022/8/19 キイトルーダ9回目とプランク時間

理論上観測しうる最小の時間単位をプランク時間という。

要するに連続とも感じられる時間にも、デジタル音源のようなサンプリング周期があり、実は断絶しているという理論だ。我々は時間は連続と思っているが、実はプランク時間毎の意識の断絶がそこにあるのだ。

 

話は変わるが、僕は技術系か法律系かよく分からない某資格の持ち主なので、民法の損害賠償請求権についてのわずかばかりの知識もあるが、そこでは意識の断絶についての奇妙な議論がなされていたりする。例えば、交通事故で即死となった被害者は、交通事故による慰謝料請求を観念する意思を持つ余地がないので、そもそも慰謝料請求権は発生せず、被害者の相続人に損害賠償請求権は相続されないのではないか、という議論である。

もっとも、本議論については、以下のような判例が存在し、理論的にも感情的にも争いは無くなっている。

生命侵害の場合に、被害者に固有の慰謝料請求権が発生し、これが相続されるという構成(相続構成)を取るべきかどうかは争いがある。判例は相続肯定説をとっている。その根拠としては、不法行為と被害者の死亡との間には(たとえ即死であっても一瞬の)時間があり、その間に被害者が慰謝料請求をすることを観念できること…(最大判昭和42年11月1日民集21-9-2249)

生前「残念」と叫んで死亡した場合のみが、慰謝料請求意思ありとして、慰謝料請求権の相続が肯定されるという旧判例があったが、今では上記の様にそんな理不尽なことはない判例法理が確立している。

そのプランク時間よりは長いであろう一瞬で、「あぁ、自分は車に轢かれて死ぬのだ、悔しいなぁ。何としてでもこの悔しさを損害賠償請求権に昇華してくれ。」と願いながら死んでいくということらしい。突然死と思われてもきちんと何らかの意思表示をして皆死んでいくのである(法律上は)

 

そういえば今回は9回目の投薬であった。長々と何が言いたかったかと言えば、今回は投稿がかなり遅くなってしまったが、僕の場合、病気での突然死は有り得ないので安心して欲しい。ちゃんと意思表示をして死んでいくつもりだ。という言い訳である。