30代がん闘病記

2014発病・入院 → 2016転移・再入院・離婚 → 2018再出発 → 2022再々発 → 2023入院

離婚5(結婚当日の心境)

そういえば、今日から丁度2年前に結婚届を出したのだった。

僕は病気が判明してから、一度結婚話をリセットしたほうがいいと思ったし、そうでなくても、籍をいれずに半年~1年程度様子を見たほうがいいと思っていた。元妻にも焦らずにしっかりと考えるように何回かお願いをした。しかし、元妻の気持ちは変わらず、そこまで覚悟してくれているならと本当に有難く思った。

  

当日は外出許可を貰い、元妻と病院に一番近い役所に結婚届を出しに行った。

2ヵ月前には離婚届を送り付けてきた彼女が、

2年前には段取りよく結婚届を準備していたのだ。

抗がん剤の副作用の影響で、外に出歩くことがすごく苦しかったことを覚えている。役所は長い階段の先にあった。階段を上るのは非常にきつかったが、上りながら、この階段を下りるときにはもう夫婦なんだなあ、としみじみしたことを思い返す。

 

帰りの足取りが軽く感じたのは、階段が下りだったからだけではないだろう。

空を見上げると12月には不釣り合いなほど青く澄んでいた。

淀んでいた世界に光が差したように思えた。

 

全てがもう遠い昔のことのように感じる。

12/16 検診

放射線終了から115日目。

今日は九州がんセンターでの定期健診だった。

今回からはMRIではなくて、上半身全体が見れるようにCTにしてもらっている。幸いにも上半身には転移は見られていなかった。また、嗅神経芽細胞腫自体も引き続き縮小傾向にあるようだ。

リンパ郭清の手術痕は放射線を当てているので、いまいち予後が良くない。地道にリハビリを続けていくしかなさそうだ。血液検査の結果も特に問題なし。

また、鼻水の量が尋常でないので、その検査もしてもらったが、脳の髄液が漏れ出してるということではなさそう。先生の見解では、細胞が死滅する過程で何か反応が起きているのかもしれないとのことだ。髄液では無かったので取りあえずは一安心だが、原因がよく分からないので、それなりに不安ではある。日常生活にも支障を来しているし、復職後にも影響が出るだろう。何かしらの手だてを考えねば。

 

前進してるわけでもないけど、後退しているわけでもない。そんな毎日。

一応闘病記なので、病状もたまには書いておかねばね(笑)

離婚4(結婚前の心境)

元妻が病人の僕と結婚してくれたことには心から感謝をしている。

 

当時の日記を読み返すと、僕は元妻のことを「ギャンブラー」のようだと形容しているが、ギャンブラーは少なくとも自分が勝つと思っているものに賭けるのだから、正しくない表現だったかもしれない。

なぜなら、あの時点で僕の「人生の期待値」は確実にマイナスだったからだ。5割以上の確率で死に、仮に生き残っても高い確率で残りの人生は苦しいものになる。負けると分かって賭けるギャンブラーはいない。

正直なところ、「自己犠牲の精神に溢れた聖女」だと思っていたのだ。ただ、このような表現をするのが恥ずかしく、当時の日記では少しヒネた表現をしたのだろうと思う。 

 

元妻は、僕の母親に対して、結婚が決まると同時に僕が病気になってしまった状況に対して「自分がドラマの主人公になったみたいです」という話をしていたらしい。自分の置かれた状況に対する比喩でなく、多分本当にそう思っていたのだと思う。ただ、当時の正直な気持ちを述べるならば、その考え方は少し危険だと思った。

「世界の中心で愛を叫ぶ」「恋空」「余命1ヶ月の花嫁」など、闘病を題材とした映画・ドラマは枚挙に暇がない。そして例外なく闘病者は死ぬ。

逆説的ではあるが、この手の映画・ドラマの中でのハッピーエンドは「闘病者の死」でしか達成し得ない。「死」により全ての苦労は思い出として昇華され、残された主人公は想い人の遺志を継いで前向きに生きる…それでいいのだ。視聴者は、仮に生き残ったとしても、その後に待ち受けているドロドロとした苦労に気付いている。そんなもの見たくはないから、死んで終わりでいいのだ。一番「美しい」終わり方だ。

なお、「ドロドロとした苦労」は僕が現実世界で体現している通りだ(笑)

 

だから、元妻に僕が「死んだとき」の覚悟じゃなくて、「生き残ってしまったとき」の覚悟があるのかどうか、そちらのほうが不安だった。

とは言え、当時の僕は死ぬか生きるかの状態で、生き残ったらそれはそれで考えればいいという逃げに走ってしまった。何より絶望の中で「結婚」という希望に縋りたかった。お互いにもっと深く考えるべきだったかもしれない。 

  

 

12/8 障害年金について

放射線終了から107日目。

以前入院中に障害年金について少し書いた。


知り合いの社労士さんから紹介して頂いた、障害年金に詳しい社労士さんに連絡をとって相談をしてみた。結論を言えば、現状では受給は不可能。僕もある程度調べていて、無理だろうという予想はしていたので、まあ予想通りと言ったところだ。

がん患者が障害年金を受給するには、がんにより障害があると認識できる「客観的な証拠」が必要となる。例えば、血液検査の数値が極端に悪かったり、外見からして明らかに体の一部が欠損している状態でしか受給できないようだ。この条件では、正直ほとんどのがん患者は受給は不可能だろう。

他にも色々教えて頂いたが、鬱病障害年金を比較的受給しやすいらしい。鬱病の場合は、医者の診断という「客観的な証拠」があればいいようだ。「客観的な証拠」が「医者の主観」であるとは、がんと比べて基準が余りにも違いすぎる。誤解して欲しくないが、鬱病で受給している人を非難しているわけではない。

むしろ、がん患者が受給できるハードルが高すぎるのだ。がんに対する評価は昔のものを使っているものも多く、現状とマッチしていないとその社労士さんも言っていた。この状況もがん患者の就職と同じで、制度が整ってくるのを待つしかないのかもしれない。

 

しかし、余り想像したくはないが、僕だって数年後に状況が変わって貰えてしまう可能性だってあるのだ。僕は、意識する・しないに関わらず、人生で色々な布石を打ちながらここまでやってきたと思っている。その布石は僕が完全に人生から滑り落ちることを防いでくれている。

だから、今回こうやって行動を起こし、障害年金に詳しい社労士さんと繋がりができたことも、将来の布石としていつかは役に立つのかもしれない。もちろん役に立たないことが一番いいんだけどね(笑)

12/4 味覚の状態

放射線終了から103日目。

以前に少し味覚が戻ったという日記を書いたが、あれから味覚にはほとんど変化がない。味覚が戻ったら「放射線終了から〇〇日目」という表示を消そうかと思っているのだけど、まだまだ消すのは先になりそうだ。少なくとも年は越すだろう。

 

肝心な塩味・甘味の味覚が戻ってきていない。

塩味は、塩そのものを舐めた時しか感じることができず、食事に含まれる自然な塩分はほとんど感じることができない。その一方で、甘味は砂糖を舐めても全く味がせず、野菜などの自然な甘みしか感じることができない。逆だったらいいのに(笑)

もう放射線が終わって3ヵ月以上経つが、ここまで戻らないということは、もう味覚の打ち止めになってしまったのではあるまいか。味覚が治療以前の水準に戻ることはないのは理解している。医師によると8割程度は戻るという説明だったが、当然個人差があるだろうから、ここが自分の上限ではないのだろうかという恐怖がある。

同病の方も半年くらいかけて少しずつ戻っていったという話をされていたので、そのようなものなのかもしれない。しかし、ここ1ヵ月何の変化もないという事実は、僕を不安にさせるには十分だ。

 

味覚障害の他にも、手術の後遺症で顔面の右下が麻痺しているので、食べかすが口の右下に大量に溜まり、食事の度に指で掻き出さなくてはならないという問題もある。この作業の度に人間としての尊厳が失われたような気持ちになり、とても虚しくなる。今は食に対する楽しみは一切ない。生きるための作業だ。

食事がこんなにも苦痛なものだったとは。

Eat to live, not live to eat.