30代がん闘病記

2014発病・入院 → 2016転移・再入院・離婚 → 2018再出発 → 2022再々発 → 2023入院

2/7 電験1種の結果

先日受験した電験1種に合格していた。

なお、今年の合格人数は86人。受験者数は2093人だから、合格率4.1%と狭き門だった。そして、九州での合格者は7人だったから、各県に1人ずつ。つまり、嗅神経芽細胞腫の発生確率と同じ程度の合格者しか毎年生まれないことになる。そう考えるとかなり貴重な資格だと言えるだろう。しかし、自分の病気の発生確率を珍しさの基準とする癖はそろそろ直したほうがいいな(笑)

 

これで原発だろうが何だろうが、日本国内全ての設備で管理者になることができる。一般の知名度は皆無に等しい資格だが、業界では「神」にも等しい威光を得ることができる。実際のところ、電験1種に実用的な意味なんてほとんど無いのだけど、肩書きとしての意味は非常に大きい。僕もそれを承知で取ったのだ。再発・再入院となって失職したとしても、電気業界の予備校講師として電験1種の肩書で再就職はできるだろう。また一つ保険ができたのが嬉しい。

正直なところあの短い準備期間で受かったのが信じられないところであるが、問題の傾向にも助けられた部分も大きい。だから、受かっても驕ることはない。

でもしばらくはこの喜びを噛み締めることにしよう。

 

12/12 境界線

先日PET-CTを受けてきた。相変わらず高いが背に腹は代えられない。結果は「特に問題なし」。今年は穏やかな年末を迎えることができそうだ。

がんセンターに行くと、長い待ち時間を少しでも有意義に過ごすために、同病の方のブログをチェックするのが習慣になっている。その中の一つに、自分が発病した時から見ているブログがある。2年前から更新が無くなっていたので気になり少し調べてみたら、残念ながら亡くなっていたようだ。

いつも以上に苦しい気持ちになり、なぜ自分は生きているのだろうと考えてしまった。この方と僕の境界線って何だったんだろう。発病時期も病状も年齢も、僕もこの方もほとんど変わらないくらいだった。

 

大学の語学の授業で非常に印象に残っている回がある。

なぜそのような流れになったかは忘れてしまったが、トルストイの「戦争と平和」というタイトルは「失敗した意訳」であるという話だった。実際、ロシア語の原タイトルには「戦争」も「平和」も一文字も出てこないようだ。

日本人は戦前・戦後という強烈な経験があるために違和感なく「戦争と平和」というタイトルが受け止められているが、戦争と平和と言う状態は、それぞれ白か黒の一方の状態のみで存在するわけではない。両者の境界線が混ざり合いつつ、我々はその境界線の上で営為をなしているのだ。要約するとこんな感じだった。

僕はその当時、大学の教養過程で、存在を確率で表現するという量子力学の考え方を学んだばかりということもあり、この主張を違和感なく受け入れることができた。

それも相まって、僕の中でかなり印象に残っている話だ。

 

「生と死」も似たようなものなのだろうと思う。

同時期に発症し、僕は生きていて、この方は亡くなっている。でも、パラレルワールドがあって、そこでは多分逆なんだろう。そんなもんだ。理由なんてない。二人とも境界線の上にいて、たまたま僕の境界線が「生」にぶれてくれた。それだけなんだろう。

そして、病気になってからは「死」を意識しない日はない。遺書は常に準備していて、必要に応じて更新している。量子力学的に言えば、今は「死40・生60」くらいだろうか。感覚的には1年前は「死70・生30」くらいだったから大分復活してきたようには思う。これが「死20・生80」くらいの感覚に戻れば、まぁ寛解と言えるのだろうか。

まだ先は長いが、この方の分まで生きることができればと思う。

次の検査は半年後。少しずつ。一歩ずつ。

12/1 臥薪嘗胆

このブログは親切(お節介)なことに「あなたは1年前にこんなことを書いています」というのを定期的にお知らせしてくれる機能がある。先日その通知があった。去年の今頃はどんなことを書いていたのだろう、と覗いてみると、そこにはこの世のありとあらゆる不幸を体現した男の日記があった。

さもありなん。一番酷い目に遭っていた時期だ。

 

あの時期はもちろん体力的にも苦しかったが、それ以上に離婚をはじめとして、人の悪意に触れることが多くあったため、精神的に非常に参っていたことを思い返す。とは言え、比較的冷静な筆致であるから、日記を書くために文章として推敲する中で、自分の感情を整理できていたのだと思う。

でも、正直あの時期は一切の人間を信用できなくなっていた。信じられないかもしれないが、味覚がないことをネタにする人もいた。僕が味覚障害で苦しんでいる正にその時に、半笑いで小バカにするようなことを言われたときは、悲しいやら悔しいやらで目の前が暗くなったものだ。

 

一方で僕を心配して定期的に連絡をくれる人もいたし、心から心配してくれる人もいた。僕のために泣いてくれる人もいた。そんな人たちに報いるために頑張ろうとも思えた。

いつか人生が上手く回り出せば、「そうだ、この世はこんなにも希望に満ち満ちていたのだ」と再認識することであろう。その日を楽しみにしつつ、捲土重来・臥薪嘗胆・艱難辛苦…忍耐に関わるありとあらゆる四字熟語を胸に秘め、今はひたすら耐える。

11/19 電験1種

ご無沙汰しています。更新が無く心配してくださった皆様、申し訳ありません。特筆すべきこともない淡々とした日常を送っています。普通の人にとっては何もない淡々とした日常など、何の刺激もない忌むべきものでしょう。しかし、何もない日々というのは、がん患者にとってはとても有難いものです。

さて、本題の日記の更新です。いきなり文体が変わりますがご容赦を。

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電験1種の2次試験を受けてきた。昨年2種を受けて以来だ。

 

流石は技術系資格の最高峰といったところで、1次に合格してからの付け焼刃では太刀打ちできる内容ではなかった。しかし、その割には健闘したとは言えよう。多くの凡ミスもありながらも、合格可能性は半々といったところだ。

とは言え、最終合格率は3%の超難関試験。合格者が1桁人だった時代もある。現在の国家試験の中では最も合格者が少ない試験だろう。簡単に受かるとは思わないが、まずはそれなりの体調で受けることができるようになったことに感謝したい。

 

そして、去年と全く同様のシチュエーションで試験を受けたことで、去年に比べると大幅な体力の復調を感じられる一日でもあった。

去年受けたときは、喉がカラカラで頻繁に試験中に水を飲んでいたが、今年は試験中は飲まずに乗り切ることができた。また、去年の試験中は頭痛と術後痛に散々苦しんだが、今年はそれらに悩まされることはなかった。

試験を通じて体力の回復を実感するというのも変な話ではあるが、まぁ僕らしい実感の仕方であるとも言えるのではないだろうか。

  

合格発表は来年2月。楽しみに待ちます。

10/9 ランニング

この時期になると福岡の街は福岡マラソンでソワソワし始める。家の近所のランニングのメッカも、週末になると多くのランナーで賑わうようになる。暑い時期も過ぎ、過ごしやすい季節になってきたので、僕もランニングを再開することにした。

体力の回復が目的だが、全体運動をしたほうがリンパ痕も柔らかくなるのではないかという考えと、副次的効果として精神が前向きになることを狙っている。

6分/kmで4km走るのが今のところの限界だ。3年前マラソン完走したとは思えない体たらくで情けなくなってくる。しかし、同じ状況でマラソンを再開している仲間がいるから頑張れる。また一から積み重ねれば復帰できるはずだ。

 

目標は来年の福岡マラソン。無理でもハーフくらいは走れるようになりたい。